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過ぎ去りし過去は遠きにありて想うもの‥‥‥‥‥‥‥未来は遠きに想いて足元にありきもの‥‥‥‥‥野 嶋  勝 利 格言集より

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幼少の頃の回想

1944年(昭和19年)10月20日生まれで67歳です.
幼少の頃を思い返すと当時の満州国安山市(現在中国)にて生を受けた.旧満州国の日本人引揚者のようであります.引き揚げて来たばかりの事を亡き祖母の話では、当時麦わらの家の雨だれの水たまりを無邪気に素足で元気に走り廻る元気な子供で合ったと祖母は口癖のように話していました.
一方戦後の食料危機の時代に育った事もあり、胃腸の調子は30代全般までつづいた事を記憶しています.

それでも小.中学校を無事卒業と言う矢先、中学2年生の3月父の予期せぬ交通事故死(42才)で大黒柱を失った 野嶋家は混沌した状態に入りました.
当時の家族構成は祖父/祖母/母/姉/私/妹/弟の7人家族でしたのて、生活苦はもちろんでしたが、もともとが農家と言う事で食料に関しては自給自足生活でした.

私の中学を卒業して高校進学問題が発生して、祖母や母の計らいもあり、近くの県立の農業高校に
入学 実を言うと内心工業高校に行きたかった事は事実ですが、もともと農家の長男という事もあり、経済的にも已む無い選択であったと想います.

3年間の高校生活後、卒業後即祖父の名義の土地600坪(2反)を売り払い 新規事業に入りました.

20歳頃の回想

新規事業の内容は養鶏事業で種鶏500羽 プロイラー5000羽を飼育する
養鶏家として、農業の一部を近代化する気持ちで着手したものでした.

その間高校時代の同級生と結婚(22才)
翌年23才で長女誕生 24歳で長男誕生

26歳にて農業近代化のつもりの養鶏事業は鶏のニューカッスル病にて全滅する

27歳~37歳の頃~サラリーマン時代10年の回想

27歳の春 妻子生活費を稼ぐために必然的にサラリーマンの社会へ踏み出す
浜松は製造業が多かったので最初に就職したのは、ゴム及びプラスチック製造関係の商社でしたここでは2年間勤務しましたが、製造工場と納品先を往来する日々でしたが、ここで得た事は一つの工業製品を造るために多くのパーツにより構成され、それらをアッセンブリー化により完成するという事でした.

次に転職したのは、総合プラント工事会社て、ここでは水処理装置を始めとして、油水分離装置等の製造して、現場に取り付けするまて゛の工事を受注生産する事が責務である事から、現場調査と共に設計業務まで携わる事となります.
当然の事ながらこのプラント工事は、設置に置ける土木工事から始まり、装置の機械設計とこれらを正常に作動させるための電気制御設計と配管系統設計は取付現場全体を把握しないと出来ない重要なポジションでした.企業の中で外注を含め、これらの仕事の内容別に分担して進行させるプロジェクトだったのです.
特に私が実施したのは、装置の機械設計分野で缶体設計と配管系統設計の分野で町の鉄工所や配管工事屋さんと打ち合わせをした事を昨日のように思い出されます.

その中でも電気制御設計の分野では当時とは違って、弱電気制御(シーケンサー制御)が支流となり、より細かい正確な情報を入手(センサー)より、早く正確に対処する事が出来る事は驚きであります.

この頃私生活的には、住まいである浜松市高丘町内が農業地域(市街化調整区域)から市街化区域への都市区画整理事業を開始される事になります.

37才の株式会社設立の転機回想

都市区画整理事業は私の人生の中で大きな転機となりました.何故ならここに3000坪(1ヘクタール)の農地があり、かつてここで農業(養鶏業)を営み.住居のあった場所です.
ここを区画整理事業により、用地買収と立ち退きを迫られたのです.
住居は幼少からの住まいである 祖父/母との同居生活に入りますそれが現在地の西区伊佐地町であります.
一方用地買収資金を得たもので、市内に20戸のアパートを建設しました.
事業資金1600万にて、トレビー技研株式会社を創設
製造業としてかつての電気制御技術と配管系統技術を生かして作成されたのが下記製品です
エンカク取説写真
自動給水と節水システム機「エンカク」は大量に売れる事はなかったのですが、後にホテルの客室に利用され、お客様より絶大なる好評を得ています。
その後社名変更トレビー企画株式会社と変更
区画整理事業の個人の用地買収の代替用地1000坪に総工費3億3000万にてホテルAirPortを建設その後数年後に下記のホームページを立ち上げた公式WEBサイト【ホテルAirPort】です
エアーポート建物画建物外観写真つながっているキャツチコピー画

総合看板765-228
ホテルエアーポト近郊には上記写真の数値表示看板が数ケ所設置され道案内と同時に入室状況を365日24時間無線機により入室情報を提供しています

50~55歳の頃の回想

37歳で開業した[ホテルAirPort]は開設直後5~6年は毎日が満室状態が続きました。
こんな時は悪い夢を見るものです。
2号店を作ろうと土地(不動産)購入に入りました。しかし建設費の融資先のめどがたたず建設を断念 断念後土地売却は購入時の半分以下で2億近くの損金計上になる。

高校から国立の名古屋大学 経済学部に入学した 秀才型の長男が大学4年まで〈国家資格公認会計士〉をめざしていた彼はこの試験不合格通知後それを苦にしてか?自宅に帰って来て自殺を計る
大学4年の秋21歳の若さにて自ら終止符とする。

その5年後妻が脳腫瘍と云う大病で入院/手術 13時間にのぼる脳外科の大手術でしたが、3ケ月後に退院~現在も後遺症で片足に義足を嵌めて歩む日々ですが、命だけでも助かった事を感謝する毎日です。

65歳頃より現代想う事

65歳の夏地元の観光地 館山寺 開花亭にて中学時代の同窓会を開催しました。私が主幹事と言う事もあり、同窓生の写真をデジカメにて多く撮影しました。それをWEBサイトのブログにしました。気の向いたら見て下さい

70歳の現代想う事

【新エネルギー探査研究所】を2013年3月11日の事件後に本サイトを立ち上げた事です。
当初は東北地方の悲惨な津波災害から始まり→原発への不振はから始まり「原発安全革命」→自然エネルギーの探査→HHOガスの探査研究→水素ガスについて探査→水素を造る方法の調査→メタンの水蒸気改質するためのモジュール開発書物や研究論文→無機ハイドランドについて学識論文を読み学びの途中に矢部孝教授の「マグネシウム文明論」と遭遇と成りました。

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